雨漏りドクター 顧問弁護士/大川哲次【よつば法律事務所】

雨漏りには、時間が経ってしまって材料が痛み、その結果雨漏りがする、という経年劣化での雨漏りもあれば、一方で、建築時の設計ミス、施工ミス、手抜き工事等による雨漏りもあります。
建築時のトラブルによる雨漏りの場合、建築した工務店が良心的でかつ技術的にも問題が無いところであれば、何の問題もありません。

しかし、建築時のミスや手抜きを認めない工務店もあったり、技術的に直そうとしても直すことが出来ず、そのまま放置されてしまうケースもあります。
また、建築時だけでなく、中古物件の売買をした後で起きる雨漏り等についても、裁判等に発展することも珍しくありません。

そういった場合、弁護士の力がどのくらいあるのか、雨漏り等のケースに慣れているのか、等によって裁判の勝敗が変わってきます。

雨漏りドクターの弁護士・大川先生は、元大阪弁護士会の副会長でもあり、多くの実績と力を持っています。
全国、どこの案件であっても対応は可能です。
弁護士に相談するとなると気が重かったり、お金がかかってしまうから……、市区町村の相談窓口だと時間も決まってるし……などとなかなか重い腰が上がらないこともあります。
そんな時は、ちょっとややこしくなりそうな雨漏りであっても、まずはお気軽に、私たち雨漏りドクターへご相談下さい。

【大川哲次弁護士】
大阪矯正管区館内篤志面接委員協議会常任理事。
奈良少年刑務所篤志面接委員協議会会長。
他:大阪刑務所、大阪医療刑務所、大阪拘置所、浪速少年院、奈良少年院に おいてボランティアとして受刑者、少年たちの指導・教育にあたる篤志面接 委員を務める。
平成10 年度大阪弁護士会副会長。
平成15 ~17年度大阪弁護士会犯罪被害者支援委員会委員長。他

【よつば法律事務所】

大阪府大阪市北区西天満4-3-25 梅田プラザビル6階
電話 06-6365-8137/FAX 06-6365-6518

母が残してくれた宝もの

大川 哲次〈弁護士・旅行アドバイザー〉

(2012年1月24日 大阪日日新聞・論壇掲載分より)

 私は、三重県尾鷲市で製材業を営む家庭の次男として生まれ、高校卒業後に大阪の大学へと進んだ。大学を出てから2年少し、司法試験の勉強を続けた。その間勉強にだけ専念もできたが、大学まで出してもらったうえ、親からの仕送りだけに頼っては駄目だと決めて、新聞配達のアルバイトをしながら勉強することにした。

 それを2年半ほど続けたが、アパートへの配達で廊下を静かに歩けなどとよく注意された。他方で、人の温かさも知ることもできた。朝早くから庭掃きをしている奥さんが温かい食べ物を用意してくれていたり、他の人からも下着をもらったりした。汗ビッショリでうす汚い格好をしている自分なのに、いろいろな人から優しさを頂いた。

 私がここまで頑張ってこられたのは、二つの理由がある。一つは、若いころの2年半、新聞配達のアルバイトを続けたこと。その間毎朝4時に起きて、年に3回の休刊日以外は1日も休まずに配達を続けた。自分が休んだら代わりの人がいないため、何がなんでも毎朝4時には起きてやり遂げなあかんと眠い眠いと思う自分にむちを打った。

 今はどんなに困難な仕事でも頑張れるのは、その時の新聞配達の経験があったからだと思う。人間一生のうち1年でも2年でも継続してがむしゃらに頑張った時期があれば、その後の人生において、きっと役に立つ時がやって来るであろう。

 頑張れたもう一つの理由は、母の存在である。私は、中学2年の時突然父を亡くした。以来私を含めて4人の子どもを育てるため、女手一つで一生懸命働く母の姿を見てきた。私が新聞配達をしながら司法試験の勉強をしている時は、2週間に1度ほどの割合で私が栄養不足にならないように、野菜・魚の干物・米などを段ボールいっぱいにして送り続けてくれた。

 母からの荷物には必ず1通の手紙が添えられていた。その内容は、「勉強頑張れ、試験に早く合格するように」という言葉は一つもなかった。「健康には気を付けよ。今年駄目だったら、また来年頑張ればよい」という言葉で何時(いつ)も語りかけてくれていた。そこまで自分のことを思ってくれる母に、いずれは恩返しのできる子になろうと常々思っていた。その母への使命感にも似た思いが、私の頑張りの力になったのであろう。

 司法試験に合格し、初めてもらった給料は、何時も精神的な支えになってくれた母のために使おうとずっと思っていた。そのお金で母の好きな温泉に連れて行った。「初めての給料をもらって、温泉に連れて行けるまでになったよ」という姿を見てほしかった。

 その時言葉には出さなかったが、母もきっと同じ思いであったであろう。それ以降母が行きたい所には、一緒に行った。海外には3回、温泉には30回ほど行っただろうか。母は大正生まれのせいか、戦争の跡が残る所を見たがったので、沖縄や広島にもよく連れて行った。

 母は、10年前の平成13年12月に86歳で亡くなった。父が亡くなってちょうど40年が経(た)っていた。母は三重県熊野市の山村の生まれで、学校を出てから奉公に行き苦労をしてきた。そんな母であったので、もう少し親孝行しておけばよかったと後悔もしたが、父を早くに亡くしたため、親と子の絆を普通の人以上に強く感じられたと思う。また両親が揃(そろ)って大きくなっていれば、自分がここまで頑張れたか、今ふり返っても自信はない。

 私は昭和50年に弁護士になってから母に小遣いとして毎月欠かさず送金を続けてきた。母も私からしばらく便りがなくても、毎月届く現金書留を見て私が元気に頑張っていると安心してくれていたようである。母が亡くなってから知ったが、母は送った小遣いをほとんど使わずに、私の3人の娘の名前で預金をしてくれていた。

 そのような母の優しさと愛情は、母から贈られた人生最高の宝ものとして今も私の心に生き続けている。

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